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大学で学んで良かったことってまだある。
情報の正確さを見極める、というのかなー、難しいなあ、何を信じるか、の精度が前よりは上がった、かな。
例えば、テレビで報じられるニュースを鵜呑みにしない、とかね。本当に報じられる側面だけが正しいのか?って疑う。
そりゃテレビで放送されてるんだから正しいに決まってる、って本当にそうなのかな?と。
例えば、幼女誘拐事件があったとして、誘拐犯はアニメが好きでアニメのグッズが部屋から沢山出てきた→アニヲタは危険、みたいな、というかそういう風なイメージを無意識にテレビに刷り込まれて左右されてないか?とかさ。
ヲタクだから、とか、そういうので一括りにして危ないだとか言うのはどうなんだろう、という感じかな。
後は今話題になってる某力士の方のニュースだけども。
暴行した、悪だ、引退しろ、と、今まで相撲に興味がなかった人間たちが寄ってたかってその力士を一斉に叩き始める。
これは正義、なのか?という。断片的な情報だけで何かを判断し叩き始める。その力士が培ってきたものや事件の背景、などは無視されるのか?
これが無意識だから怖いんだよねえ。いじめの縮図な気もしているよ。
ある事柄には様々な側面があるにもかかわらず、ある一側面の情報だけで物事を判断し、偏った見方やイメージなどが世間に植え付けられる。
そこで、よく考えると理不尽だし論理的な理由になっていないにもかかわらずそのイメージを理由に人を非難する。
それは怖いな、と私は思った。
かといってネットで書かれていることも全て事実でもないし。デマの拡散だっていくらでもできるわけだし。
デマだと明かされずデマが安易に信用され収集つかなくなる事態だって起こり得るんだよなあ。
したらどうすんのよ?っていう。
デマをデマだと見破れるための目を見極めるとか、断片的なイメージを安易に信じ込まないとか、まあ色々、情報を見極める目を養おう。っていう。
私だってまだまだだけど。自分が正しいと思ってた情報だって間違ってるってこともあると思うけど。
まずは、疑ってみる。ってところ。
私はそれを関わる人を見極めることにも役立ってると思っている。
自分が関わってる人たちが全て良い、それ以外はダメとか言ってるんじゃなくて。
どういう人と関わったら、お互い幸せになれるだとか、良好な関係を築いていけるのかな?とか、まあそれはお互い様なことだけどね。
私が選んだって相手にも選んでもらえなきゃ意味がないわけだから。
まあ最近はお任せ精神でだいぶ緩くなってきてはいるけど。
とはいっても常にこんなガチガチに硬い頭で生きているわけではない。笑
やっぱりこういう話って人を選ぶし、私としてもあんまり楽しい話じゃないと思ってるから人といる時には、求められない限りこういう話はしたくないのよ笑
直接人と話すときは、お互いに楽しみたいし、ちゃんとその辺も考えてる。
こんな話よりも、例えば好きなものの話、私はいないけど恋人の話とか、楽しかったこと面白かったことの話の方が楽しいわけだから。
私も人につまらない思いさせようとは思ってないので。笑
今回の話も、人と信頼関係を築くために必要なのかな、と思ったことを取り入れている。って感じかな。
そりゃもちろん、どうしたって信頼関係築けない人だっていて、もうそこは仕方ないと思っているし私としても人選ぶし誰でも良いというわけではないから。
生意気だけどもね。ただ、同様に相手にも同等の権利があるからね。
何度もいうけど、私だけ選んだって意味がないから
人を否定しないというか、その人の個を尊重するということは、違いを認識してなるほどね、と否定せず受け止めること(必ず肯定すべきとは言ってない)だと思っているから、多分お互いその上で関わる程度とかを調整していけばいいんだと思う。
信頼関係を築くための基礎が、他者を尊重することなのかな、と今は思っているので。
そのためには、例えば世間のイメージとかで安易に人を否定しない、見極めの目が必要なのかなと。
ふと書きたくなったことでしたー!
ほんと気まぐれでしかない。けど、結構すっきりする。