momomo1124’s blog

好きなものなどひたすら壁打ちしています。

結構デリケートな話題なので、

あ、無理だと思った方は即Uターンでお願いします。影響されやすい方は特に。

 

あんまり人にわざわざ直接話すような内容でも語り合う内容でもないので

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一昨日の事件について。

犯人は亡くなったようですから真相は闇の中になってしまいましたので、真相はわかりません、が、ひどく悲しくなりました。

勿論、ご遺族の方々への哀悼の意が第一ですが

 

色々な記事も出て、炎上している記事もありましたが、第三者だからこそこのような事件を多角的に見ないといけないというか、

現実を直視しないと、問題の根幹に近いもの(勿論それは人によってケースバイケースですので、せめて何通りか傾向を掴もうとするだけでも)探らないと、犯人叩きだけしても何も生まれないと思いますし、

正直に言うとこのまま社会が変わらなければまたこのような事件は起こる余地はあると思います。

 

社会を変えるって言っても、1人の人間が喚いたところで何も変わらないのが現実ですが、

個人的にはその視点大事だよなって記事が炎上、つまり注目されていたのは大きかったとは思うんですが、

やはり、見出しに捉われていたり まあ、見出しも絶妙に犯人擁護してると捉えられるような感じだったので、記事を読んでない人はまあそういう反応になるわなって感じでしたが、、、

また、この視点がわからない人って一生わからないんだろうなと

隔たりの深さも感じて悲しくなったりもしましたね。

 

まあ、正直見出しだけに捉われずまずは記事の内容を読み、主旨を理解しようとすることが第一歩なのですが、その第一歩のハードルが高かった感じですかね。

 

防犯対策強化も勿論必要だとは思いますが、現代は防犯対策がかなり進んでいる上に学校もしっかり防犯対策をしていたような印象を受けました。

誰かにお前のせいだと責任を押し付けたり、はたまた自分がこうしていれば、、、と自分のせいにしたりする人もいたり

防犯対策が甘かったんだと理由をつけて人のせいにしたくなるんですよね、人って。

理由をつけて納得したいもしくは納得した気になりたい。そういうものだと思います。

 

個人的には、主に議論すべき点はそこではないんじゃない?(防犯対策をこれ以上強化しなくていいとは言っていません)と思いました。

 

加害者のバックグラウンドを見ると、個人的にはやはり人とのつながりが希薄だったのは少なからず影響していたのかな、と。

 

勿論私と加害者は違う人間ですが、私も結構昔から怒りっぽいです。怒りの沸点はかなり低いかと。そこは今でもあんまり変わってないかもですね。

私の家は結構勉強熱心(私はついていけなかったですけど)でした。一応私立幼稚園?っていうのかなあれ。

幼稚園から英語や漢字とかやってるような感じでした。

 

まあ普通に小学生の頃も塾行って、勉強していい学校入らなきゃいけないみたいな。親の意思で。というか親に従わなきゃいけない感はあったかな。

昔の私は多分そうじゃなきゃ自分には価値がないって思ったんでしょうね。

実際テストとかで低い点取ったりすると結構怒られた記憶がありますね。

 

もう、なんも意味わかってなかったですもん、勉強の意味。

個人的には、もちろん一般的な知識として単純に覚えることも大事ですけど、勉強の意味ってこれはなんでこうなるのか?っていう論理的思考の基礎を築くのが勉強する意味かなって今は思いますけど、、、

当時はほんっとに全く何も考えてなかったです。

とりあえず全科目とにかく暗記したり、国語は現代文とかよくわからんから勘でしたし算数はとりあえず型のある計算式だけ覚えてただけで、

なんでこれがこうなるのか?って全然考えてなかったので苦手でした。そりゃそうだ

 

まあだからもちろん、勉強出来ないってことは親にも怒られる。怒られればそりゃ自己肯定感は下がる。

褒められた記憶は、隣の人の国語のテストカンニングしたら満点だった時くらいしかないです笑 最低だな私笑

無意識下で、いい点取らなきゃいけないって意識が働いていたんでしょうね。

 

なんか、自分には褒めてくれる人がいない、何かすれば怒られる、頭も親が納得いくほど良くなかった(結局兄弟内で私が一番学歴低いですし)、もう何やってもダメだって感覚だったかもしれないです。

褒められない、否定される言葉を親から言われるって、子供にとっては結構きついです。自分の存在が許されていないような感覚になる。

私は自暴自棄→自分が死ねばいいって人間でしたが、これが人、親への怒り、憎しみに変換されてたら、今の生活が送れていたかわからなかったと思います。

生気が無かったっていうか、、、

生きてる感覚もなかったですね。だから私が死んでも何も変わらないんじゃないかって。

もはや寂しいという感覚さえ失ってたというか。だから今でも、寂しいってピンと来ないのかもですけど。

 

いや本当に大学2年とかまでは人間関係もうまく行ってなかったと思いますね。

人間関係の築き方を学んで来れなかったのは本当に痛いなーと、、、

今更取り戻そうとはしていますけど、やっぱり追いつかないし、上手くやれないことの方が多いです。それでも仲良くしてくれる人がいるのは、感謝しかないですが。

 

大人数と仲良くとか無理でしたし、中学3年の時はクラスで孤立してましたし(高1もかな?)小中高大全部、1週間以上引きこもって学校行かなかったりしましたし。

もう何もかもがわからなかったというか、、、

だから、まあ共感能力以前の問題ですよね、人との距離感や、これをしたら人がどう思うかとかがわかってない。それは今も多少は名残がありますね。私結構自分本位だし。

今はそれを言い訳に絶対にしたくないから、人の気持ちの理解には努めていますけど。

 

でもなんか、親のせいにしても何も変わらないなって気付いたんですよね。大学の頃なのでまあここ数年の話なのですが。遅い。笑

 

振り返ってみれば、たしかに昔は親子関係は決していいと言えるものではなかったと思います。私が保健室通いしてた時に、親の話をしたせいで中高1回ずつ親が学校に呼ばれてましたから。

 

ま、そのあとは死ぬほど怒られて、また絶望したのは言うまでもない話です。

ただ運が良かったのかもしれないのは、私が長年反抗し続けた結果、ついに自分の非を絶対に認めようとしなかった親が謝ってきたという。

 

まあ、しばらくは親に謝らせた私は死ねばいいとか思ってましたし、私が死ねば全て解決するとかね笑

本心から思ってるのか?って、最低だけど疑心暗鬼になったりもしましたし。

 

 

なんかものすごく話が脱線してますけど、

要は、昔の私の絶望感、人間関係が上手く築けなかった故の苦しみ、親に褒められない、否定される等が行き過ぎたり、その人自身のキャパを超えると、

もうなんか、ヤケになるんですよね。なにもかもに対して感情が無くなるというか。

 

自分を褒めてくれる人、否定されて自分の存在を認めてくれる人がいないとなると、

やり場のない悲しみや寂しさ、怒り、憎しみが生まれるんですよね。これは人によると思います。

あとは、溜まり溜まったそれらの感情が爆発した瞬間あるいは静かにスイッチが入った瞬間、どの手段を取るか。

誰でもいいから全ての人間に何かしらの形で復讐してやりたいと思うのか、黙って1人で死ぬのか、はたまた助けてもらってブレーキが効くようになるのか。

 

もう、何もない人って守りたいものとか、大事なものとかそもそもそんなもの概念が無いんですよね。

自分が持っていないものを人が持っている妬み、憎しみも生まれる可能性もありますしね。

 

あとは、承認欲求とかなのかなあ、あくまで学んだことでしかないですけど、、、

普段、存在を認識されない、目立たない分、あえていわゆる悪目立ちというのをしようとする、悪ノリの延長の人もいるだろうけど。

いや普通そんなことしないだろ、というのは自分の中の常識に過ぎなくて、そんなものあってないようなものです。だからこそ柔軟な思考、対応を身に付けたい限りですがね。

自分の常識、普通通り人は動かないから、気に入らない人ができて、人間関係の問題がある、悪口だって生まれる、裁判が行われる等、

ある種そうなるのは自然だと思います。

 

今回の事件は嫌でも人の目につきますからね。

何であろうと、自分の存在を多くの人に認識させたい、させてやるって気持ちとかも関係してる可能性もなきにしもあらずですが、、、

だんだんと前回はこういう事件があったから、これ以上のことをしないと注目されない、と凶悪な事件が増えていく可能性があるのは危惧しなければいけないと思います。

 

最近、人の承認欲求って根深いんだなと思いますね。注目されたい、褒められたい、存在を認識してほしい。そういう気持ちは程度の差はあれど、大半の人が持っているかと。

でも、なかなか人から褒められない、存在を無視される、からどんな手段を使ってでも目立ってやろうとか、自分の存在を認識させてやるって気持ちの爆発力が強まるのかなとも。

 

ああなんか話ズレ過ぎてる

人との関わり、助けてくれる人がいるか、自分の味方になってくれると感じる人がいるか否かは多少なりとも人格の形成に関与すると思います。

私は運良く大学の頃に助けてもらえましたが、もし私が大学に通っていなかったりしていなかったらわからなかったです。

本当に、今でも仲良くしてくれる友達がいてくれていることと、大学時代に助けてもらったことで自分は変われたなと思っています。

 

ただ、人を助けるって、そんな簡単なことではないです。むしろ無理なことの方が多いです。

根付いた感覚、捉え方、考え方ってなかなか変わるものじゃないしおそらく変わらない人は一生変わらないので。

 

私は、ひたすらもうここにたまに書いてるような意味のわからない話をカウンセラーさんにぶちまけてましたし、

ゼミの担当教授には死ぬことを考えているとか、そういう話もしましたし、

急に泣きだしたりしても、そりゃもちろん今思えば絶対その人を困らせてたけども、大丈夫だよって言ってくれた人もいましたし。

私の話を聞いてくれる人がいて、慰めるとか、表面的に死なないでよって言うよりも、とにかくぶちまけることをさせてくれたり、急に泣き出しても何も言わずに見守ってくれて、そこで誰一人私のことを否定しなかったんですよね。

それだけでなんか、なんというか妙に救われた気分、今までの苦しみから解放された気分になったというか。

もしかしたら、今までの自分の1番のターニングポイントだったかもしれません。

 

私はなんでもは救えません。誰しもを救えません。というか、人は人を救えるとは信じ過ぎない方がいいのかもしれない。

 

経済力も知名度もないのはもちろん、苦しむ人にとって救ってほしいと思う人が私じゃないというか、お前に何言われても何されても何も響かないって人もいますし。というか、もはや私に救える人っているかわからないレベルです。

何をもって人って生きていられているかって本当に人それぞれですからね。救いの形も多様です。

 

誰しもが誰かに必要とされているなんて無責任なことは絶対に言いませんが、

人との繋がりは絶やすべきではないと思いますし、繋がりを絶やさないようにする努力も必要になるかと。でも、たまには頑張らなくていいこともあると思います。

 

個人的には、出来ればその人の様々な側面を知り受け止めていきたい気持ちがありますが、もちろん限度はあります。それは誰しもあると思いますがね。

 

私は運良く助けてもらえた身ですが、助けてもらえる人は増えて欲しいに決まっている、

ただ、そのためには現実を直視し具体策を練って実行し、実績を出すことが必要になるかと。

何が誰の救いになるのか、助けになるのか、きっと永遠に解決しない、ゼロにはならない問題です。

ですが限りなくゼロに近づけることは出来る、もしかしたらこの瞬間も誰かが救われているかもしれないと同時に、絶望の淵でもがいている人もいるかもしれない。

そういう人もまずは見つけていかなければならないのかなと思います。

 

今回の件は他人事だと思えなかった反面、このような形を取るのは決して許されることではないですし、本来絶対にあってはならないこと。

個人的には加害者に一切の同情の余地はありません。

 

ただ、このようなことは二度と起こるべきではないからこそ、様々な視点から現実的に考察し、早急に対策を講じる必要があると感じたまでです。